炭焼きレストランさわやかが現在にいたるまでには、様々な困難がありました。
創業者の富田重之は元々体が弱かったこともあって、戦後の食糧難から26歳で結核を発病。10年という長い闘病生活で、仕事もお金も友人も失い被害者意識にさいなまれ、一時は両親を恨みました。しかし、富田は知人に紹介された能力開発の勉強を通し、人間には無限の可能性があることを学び、マイナス発想からプラス発想に変わっていきました。その中で被害者意識から脱し、両親の深い愛情と、自然の恵みによって自分が生まれ、生かされていることに気づきました。
闘病生活のなかで深く感じた両親の無償の愛、そして自然の無限の愛。この感動を、「大好きな食べることを通して人々に伝えていきたい」、そう思って飲食の道を選ぶ決断をしました。そして1977年7月。当時40歳の富田は、経験も資金もない中、ついに飲食業を開業。静岡県の菊川町(現・菊川市)に、コーヒーを飲むくらい気軽に寄れる店として「コーヒーショップさわやか」をオープンさせました。
店名の「さわやか」は、自然のいきいきとした状態を表す言葉です。しかし「爽」という漢字は「“✗”(ペケ)が4つ集まり“大“きくなる」と書きます。これでは「さわやか」という言葉の持つ、前向きでイキイキとしたイメージとは一致しません。そこで富田は、プラス発想で「✗」をすべて「人」の文字に置き換えました。大きな「人(リーダー)」のもとに働く人が集まってがんばっていく姿。地域の「人」がたくさん集まって、だんらんが生まれる楽しいお店。
リーダーがいて、チームワークがあって、人が集まり、一番大きくなる。さわやかのシンボルマーク誕生の瞬間でした。親しみやすいお店づくりと「安全・健康・元気の出るおいしさ」を追求した愛情料理が評判をよび、たくさんの人が足を運んでくれるようになった「さわやか」。なかでも人気だったメニューが「炭焼きハンバーグ」でした。病気というピンチを乗り越えチャンスをつかんだ富田は、店名を「炭焼きレストランさわやか」へと変更。長期経営目標を達成するために拡大路線へとシフトし、店舗数を増やしていくのでした。
「私が小学生のころのさわやかは、夢のあるおとぎの国のような楽しいお店でした。テーブル、椅子、働く人や食べ物がとにかく明るくて、踊っているように見えました。」手紙が富田に届いたのは、1992年のこと。こうした書き出しからはじまったその手紙には「自分の大好きだったお店をもう一度つくってほしい」という女の子の想いが綴られていました。手紙を読んだ富田は、創業の原点に立ち返ろうと決意しました。「いつも大きな愛情で叱り、育み、生きる力を与えてくれた、お父さんのげんこつとお母さんのおにぎり…。そんな両親の無償の愛を丸く大きな愛情料理に込めて提供しよう」
こうして富田は、「げんこつハンバーグ」と「おにぎりハンバーグ」を看板商品としてメニューを絞り、従業員の育成とスキルアップに注力。今に続く「創業価格フェア(現 げんこつ・おにぎりフェア)」をスタートし、さわやかは再びお客様から支持されるお店へと変わることができました。この手紙は、まさにピンチをチャンスに変えてくれた「天使からの手紙」となったのです。静岡県のファミリーレストランとして確固たる地位を築きはじめた「さわやか」。しかし数年後、最大の危機に直面することになるのです――。